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聴き手として作り手として

 投稿者:なかじまよしお  投稿日:2017年 2月26日(日)15時36分47秒
   正月用に買った湯浅学「ボブ・ディラン ロックの精霊」を読むと、ディランは元々あるうた
のメロディに自分の歌詞を乗せてうたを作っていったのがわかる。そしてその方法はフォークの
常套手段として先人がやっていることを踏襲しているのだ。日本では高田渡が思い浮かぶ。
ぼくはずっと、そういううたの作り方に「それでいいのか。」と思っていたものだが、段々どう
でもよくなってきて、去年はバンジョー用に、「ジェシー・ジェイムス」という曲のメロディを
借りて、「酒・靴・ズボン」といううたを作ってしまった。

 同じく正月用のスティーヴン・ウィット「誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男
たち」では、mp3という音楽形式の発明によって、ネットで音楽をタダで聴けるため、音楽に
お金を払わなくなった現代の音楽を取り巻く状況が書かれているのだが、ぼくが子供の頃も、
お金がなかったので、だれかが買ったレコードをカセットテープに録音して聴いていた。時代が
変わっても、やっていることは同じかもしれない。音楽が売れなくなることは由々しき事だと
今のぼくは思う。だけど一方で、ライブや音楽フェス等は人気があるそうだ。お金を録音物では
なく、生演奏にかけるのであれば、それはそれでいいことだなとも思う。
 
 

フォロワーになりたい

 投稿者:なかじまよしお  投稿日:2017年 2月18日(土)19時49分57秒
   ザ・バンド解散後のリック・ダンコとリチャード・マニュエルの1985年のライブのCDを聴く
と、彼らのルーツがよくわかる。ザ・バンドの正規盤だけだとわからない彼らの血や肉に触れる
ことができる。ルーツとは、目に見えないからルーツ(根)なんだ。土壌とか肥しと言った目に
見えないモノが、個性という花や実となるんだな。

 ガロ解散後のトミーとマークによるガロ3分の2のライブ音源をYouTubeで聴くと、やはり
ガロの正規盤ではわからない彼らの曲間のMCが新鮮だ。

 リックもリチャードも、マークもトミーも今はこの世にいない。ぼくは彼らのフォロワーで
いたいと強く思う。
 

ジョン・レノンセンス

 投稿者:なかじまよしお  投稿日:2017年 1月30日(月)22時31分18秒
   妻からの誕生日プレゼントの中に、ジョン・レノンの「In His Own Write」邦題ジョン・
レノンセンスがあった。存在は知っていたけど、読むのは初めてだ。この本を読むと、ジョンが
作るうたは、見えているジョンのほんの1部分でしかなく、見えていない根(ルーツ)の部分が
ここにはあると思う。また、ジョンのうたの突飛な不可解な表現も、この本に比べれば窮屈な
印象すらあるし、本当はこの本にあるような表現がしたかったけれど、うたの中では制約が
あったのだろうということも容易に想像される。ジョンの表現は、うたという狭い世界には
収まりきらないものだったんだ。更に、この本にあるジョンのことばあそびをよりダイレクトに
味わいたいなら、原語で読む必要がある。いずれにしても、受け手に多くを求める、これがこの
本がアートである証しだ。
 

いつも通り

 投稿者:なかじまよしお  投稿日:2017年 1月29日(日)10時30分52秒
   早稲田通りで時々見かける男の人は、以前は杖で、今は歩行器を使っているが、いずれにせよ
なかなか前に進まずに、必死の形相で歩いている。それでもどんなに大変でも、どんなに時間が
かかっても、自分の足で歩くということに意義があるのだろう。

 ぼくはギターが下手だ。毎日練習しても、ちっともうまくならないが、おそらくちょっとでも
サボったら、たちまち弾けなくなるだろう。

 早稲田通りの西早稲田付近では電信柱が撤去中なのを、毎日通っていて見ているはずなのに、
今更ながら気がついた。その変化は意識しないと気がつかないくらいさりげないので、意識して
高田馬場から歩いてみると、馬場周辺では電信柱はそのままなので、視界がとてもごちゃごちゃ
している。そして既に撤去された西早稲田付近では視界がすっきりしている。

 ぼくは毎日、高田馬場から早稲田までの道程を、うたをつくりながら歩く。家に帰ればうたと
ギターの練習だ。
 

年齢を経て在る寂しさを好しとして

 投稿者:なかじまよしお  投稿日:2017年 1月22日(日)23時18分47秒
編集済
   最近ぼくら夫婦は、テレビを見ていて同世代の人が映っているとつい注目してしまう。
自分たちでは自らの容姿を客観的に把握できないため、同世代の他人を客観的に見ることに
よって自分たちを客観的に見ようとしているのだ。そうして見るテレビの中の同世代の人たちは
、男女を問わず一様に老けて見える。そして「こんなふうに見えるのかねえ。」と顔を見合わせ
る。今日はぼくら夫婦二人の誕生日、昨日はケーキを食べた。今日はプレゼントを交換した。
これから先、何回ぼくらは誕生日を一緒に過ごすことができるのだろう。そう思うとこの淡々と
した穏やかな日がとても尊い。
 

大寒の梅

 投稿者:なかじまよしお  投稿日:2017年 1月20日(金)23時24分11秒
   先日つぼみがいっぱいなのを確認した定点観測の梅が、油断していたらすっかり咲いていた。
しかも今日は大寒で、東京でも雪がちらつき、ぼくの中では今のところ今冬一番の寒さだった。
サイモンとガーファンクルに「雨に負けぬ花」といううたがあったっけ。こちらはさしずめ「雪
に負けぬ花」だな。
 

定点観測の梅

 投稿者:なかじまよしお  投稿日:2017年 1月16日(月)22時53分15秒
   今年の正月はおだやかだったが、暦通り小寒から寒くなり、そのままずっと寒いので、定点
観測の梅を見に行ったら、さすがに咲いてはいないもののつぼみはすっかりふくらんでいた。
桜の開花は気にならないが、梅の開花と初セミは、毎年必ず気になってしまう。そして梅の開花
はいつも早く、初セミはたいがい遅い。
 

ビッグイシューとうたを作ることを依頼される夢

 投稿者:なかじまよしお  投稿日:2017年 1月15日(日)15時55分52秒
編集済
   高田馬場の駅前ロータリーでは、ホームレスの自立を応援する「ビッグイシュー」という雑誌
を売るホームレスをよく見かける。声を出してはいけないルールでもあるのか、彼らは一様に
無言でビッグイシューを掲げているのをいつも不思議に思っていたところ、昨日初めて声を
出して売っているホームレスを見たが、誰も買おうとはしない。このまま売れなかったら
さぞかしショックだろうなとよっぽど買おうかと思ったが、結局ぼくも買わなかった。こんな時
矢野君なら迷わず買っていただろう。

 その日の明け方、旅行先か何かでどこかに泊めてもらうことになり、その代わりにその土地を
宣伝するうたを作ってほしいという依頼を受け、一生懸命に考えるという夢をみた。
 

ふんどし・石けん・携帯電話

 投稿者:なかじまよしお  投稿日:2017年 1月10日(火)22時51分46秒
   1/9の成人の日の行事でふんどし一丁の若者がインタビューで、「ふんどしを履く。」と言って
いたが、正しくは「ふんどしを締める。」だろう。ぼく自身ふんどしを締めたことはないが、
ふんどしは締めるものだということは知っている。ぼくの子供の頃でさえ、既にふんどし及び
ふんどしを締めた人というのは絶滅危惧種だったが、明治生まれのぼくの祖父は、死ぬまで
ふんどしの人だった。そう言えば、ぼくの父は髪を洗うのにシャンプーやリンスを使ったことは
なく、死ぬまで石けんの人だった。ぼくは死ぬまで携帯電話を持たない人となるのだろうか。
 

HOLES AND KNOWLEDGES

 投稿者:なかじまよしお  投稿日:2017年 1月 9日(月)20時57分45秒
   昨年末、正月用にと本を4冊買い込んだ。買えなかったものもあるのでたまたまだが4冊全部
が音楽に関する本だった。正月用だったのに、松木直也「村井邦彦の時代」は暮れの内に読んで
しまって、次に手にしたきたやまおさむ「コブのない駱駝」を今日読み終えた。どちらの本も
1970年代に関する記述が多く、それは自分の記憶にある1970年代を裏付けたり、自分が
知らない1970年代を知ることによって、自分の記憶にある1970年代が改めて自分の記憶
の中から立体的に浮かび上がってきて、読みながら興奮することが多かった。

 昨日、早稲田大学演劇博物館で「落語とメディア」という企画展を観た。「笑点」という
テレビ番組のコーナーがあり、「笑点」の司会者と言えばぼくにとっては三波伸介だよなあなど
と、忘れていた1970年代の昭和が次々と甦ってきた。

 1970年代の内外の音楽に刺激を受けて自分でもうたをつくり始めて以来、時代が変わって
もぼくのつくるうたは1970年代のまま、全く変わっていないのかもしれない。そんなぼく
だけど、今一度改めてそこに回帰してみて、更にそれを今にフィードバックしたうたをつくって
うたってみたい、そんなふうに今思っています。
 

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